2014年7月27日日曜日

【疲労】競走馬の疲労

疲労は競走馬の心身に蓄積される。身体の疲労は生理学的現象であり、休養によって通常は回復するが、精神の疲労はレースの記憶に基づいており、身体の状態如何に係らず影響を及ぼす。”見えない疲労”なるジャーゴンがあるように、調教などで問題がなさそうであっても、レースにおいてそれは露見するのだ。
心的疲労のある馬は闘争心が減退しており、スタートで遅れる、行き脚が鈍る、馬群に怯み不利を受ける、競って置かれる等々によって実力を発揮することができない。
レースがハードであるほど心的疲労の影響は出やすく、逆に高速馬場や広いコースなどで他馬を意識する度合いが低い場合はその影響を免れることができる。

以下、疲労が蓄積する過程について、短期・中期・長期の3つの視点から概説する。
なお、本稿の内容は今井雅弘氏の理論を参考に記述している。より詳しく知りたい方は今井氏の著作をあたってもらいたい。


短期の疲労は、主に一回のレース内容により出現するものである。
疲労の影響は馬が目一杯走った後に現れ易い。従って、レースのレベルが高い上級条件ほど大きく、負荷の高い内容で好走した馬ほど強い。逆に楽勝や惨敗の場合、疲労の影響は通常出にくい。また、昇級や路線変更によって対戦する馬が一新する場合、闘争心の減衰が起こりにくいため、心的疲労の影響は少なくなる。よって、同一路線で直近のレースを接戦している馬ほど影響は大きい。

具体的には下記のようなパターンを挙げることができる。

a)激走後
  距離変更や位置取り変更等の効果で激走した後。
b)接戦後
  全力で走っていることが多いため。特に後方から差しているほど疲れる。上がりで速い脚(概ね3F34秒台前半以下)を使っているとなお厳しい。
c)好時計勝ちやハイペース好走後
  速いラップを自力で刻んで好走した場合。

例として今年の宝塚記念をあげると、メイショウマンボは前走のヴィクトリアマイルを上がり33.5で差して0.1差接戦後。距離延長等の要因もあるが、心的疲労がきつい状態だった。(結果、4番人気11着)
http://race.netkeiba.com/?pid=race&id=c201409030811&mode=result


中期の疲労は使い込んで好走を続けている場合に現れる。上級条件ほど影響は大きく、ダートより芝で顕著となる。
宝塚記念ではウインバリアシオンが該当する。接戦差し後でもあるが、休養明けの昨冬から好走を続けているなかでのG1接戦というのは堪える。(2番人気7着)
宝塚や有馬のような、多くの馬が使い込んでいる状況では、休養明けからの消化レース数、レース内容による疲労の度合いが勝負を分ける重要な鍵となる。


長期の疲労は生涯のレース消化数、特に同じ路線でのレース数により蓄積する。馬は牡牝ともに序列を決めるために戦うのであり、同じメンバーと対戦を繰り返すことで戦う動機が徐々に失われていくのだ。高齢になってダートや新味のある距離へ転戦して復活する馬が出る裏にはこうした理由がある。
宝塚記念のジェンティルドンナは柔らかい馬場が苦手なため、条件的にそもそも辛かったが、同様な条件であった昨年の同レースは3着に踏ん張ったのに対し、今年はあまりやる気を見せず大敗を喫している。(3番人気9着) これは経験に基づく賢さともいえるが、長期的疲労による影響と見做せる。
生涯の戦績推移にはいくつかのパターンがあり、条件が揃えば衰えを感じさせないタイプもいるが、概して好走の要件は厳しくなっていく。ゴールドシップは初の宝塚記念連覇となったそうだが、55回の歴史があるレースでこれまで連覇がなかったというのは、長期的疲労の厳しさを証明するものといえるだろう。


疲労に対する耐性は当然ながら個別に検討する必要がある。生得的な逞しさ、状態(悪い状態で好走すれば反動が出るし、心身の充実期にあれば疲労からの回復は早い)、施行条件等に拠る。

2014年7月6日日曜日

【疲労】疲労概念の意義

今井雅弘の理論において、最も重要かつ有益な概念は疲労である。競馬予想には多種多様な方法があるが、疲労を考慮するものはいまだに稀だ。たとえば、先日の宝塚記念でウインバリアシオンやメイショウマンボは疲労面からかなりリスクの高い選択肢だったが、オッズが示す限りでは多くの人々がそれを厭うことなく勝負しているように見受けられる。
疲労の読み方を知っていれば、その影響が極めて重要であることは明らかに思えるが、それが人々に気づかれずに済まされているのは何故か。

そもそも、競馬予想は各馬が計量比較可能であるという幻想に基づいて遂行される。レースは分離不可能な全体であり、いわば出来事であるが、それが着順として登録されることにより、各馬は計算されるべき対象となる。観察により引き出された諸要素は数値化され、それぞれの馬に振り替えられる。馬場、コース、距離、走破時計、枠順、展開…等々。そのような思考にとって、疲労は自らの存立を脅かす危険な概念といえる。たとえば枠順の有利不利、コースの得手不得手は計算可能な範疇であり、加点ないし減点することにより予想へと反映されるが、疲労の影響を受けた馬は潜在能力(そんなものがあるとして)に関わらず競走に参加しないため、計量比較自体を無意味なものにするからである。
従って、前者のような諸要素が公然と議論される一方、疲労について、少なくともレース前に指摘することはなかばタブーとなる。また、敗因としての疲労は過小評価されるか何かほかの要因に取って代わられるのが常である。宝塚記念では、レース後、馬場状態や展開が敗因として盛んに語られている。馬場が悪くなかったとして、上記の2頭が馬券になるほど順位を上げていたかは疑わしいのだが。

多くの予想法は疲労概念を否認せざるを得ない構造を持っているが、それは言語一般になじみ深い様式でもあるため、強固なものとなっている。それゆえ、疲労を知ることは我々の利益の源泉であり、決定論的な思考が捉え損ねる生成するレースのダイナミズムを認知するための重要な鍵となるのである。
では具体的に疲労の概念とはどういったものか。稿を改めて詳述する。